はじめまして、STRAY CAT BLOG執筆者のSTRAY CAMERAMANです!
現在はカメラマンとして働きながらカメラサークルの運営をしています(^^ゞ
今までこれといったやりたいこともなく、自分が何をしたいのかも分からないまま生きてきましたが、ふとしたきっかけからカメラマンとゆう天職に就く事ができました。
そんな自分がブログを始めようと思ったのは、こんなただの一般ピーポーの人間ですが、カメラサークルを立ち上げて、色んな人に写真の撮り方やカメラの事を教えていくうちに、その楽しさを知りました。
人に何かを教えて成長していくのを見ることがこんなに楽しい事なんやと。。初心者の人たちがカメラにハマって楽しそうに撮影しているのを見て、こんなに嬉しい気持ちになるんやと。。
何もなかった自分でも人に『何か伝えて何かを与える』事ができるんやと思いました。
それをきっかけに、ブログだと色んな人に見てもらえる可能性がある。。
サークルの人達だけじゃなく、他にも色んな人に何か伝えたり与える事ができるんじゃないかと思いブログを立ち上げました。
サークルではカメラを教えているのですが、このブログでは自分の好きな旅、音楽、珈琲、人生論等、幅広く発信していこうと思っています。(もちろんカメラもです 笑)
どちらかとゆうと、自分の人生の軌跡を日記のように形として残したいとゆう気持ちもあり、人に話したことのない出来事や、心の奥底に眠ったままの気持ち、自分とゆう人間の全てをこのブログに執筆して、それを読んでくれた方々が、何か少しでも共感して頂けたり、元気や励みになったり、役に立ったりして頂けたら嬉しく思います(^^)
それではまず僕がどんな人間で、どんな人生を生きてきたのか(全てを書いてしまうとかなり長くなってしまうので、人生の分岐点をざっくりと、、)綴っていきます!
目次
1.子供の頃から友達が一番だった
幼少期の頃の写真を見返せば、笑顔の写真ばかりでした。
(目立ちがり屋だったのかいつも写真のど真ん中を陣取っていました(;^ω^)、、)
記憶にも残っていますが、子供ながらに笑顔でいたら周りも笑顔になってくれるのをわかっていたからです。それが嬉しくていつも笑顔で過ごしていました。
そんなこともあり、たくさんの友達がいました。毎日のように誰かの家に遊びにいったり、暗くなるまで外で遊んでいました。
友達の為なら無理をしてでも誘いを断ったりはしなかったです。何より楽しかったし嬉しかったからです。
そんな自分だから人を疑うとゆう概念がなく、信じる気持ちしかありませんでした。それが自分にとって当たり前だったからです。
だからこそ友達から初めて裏切られた時は、この世の終わりかと思うほど傷ついたことを覚えています。
ですが、それから以降も疑う気持ちより信じる気持ち、信じたいとゆう気持ちだけは拭えませんでした。そんな自分だからか、今まで何度も裏切られ傷ついてきました。
それでも人を裏切ることだけは一度もできませんでした。それは、裏切られることより裏切る方が怖かったからです。
裏切られた時の心の傷は何年経っても癒えません。それを身をもって分かっているからこそ誰かを裏切るとゆう事だけは人生で一度もありません。とゆうよりできません。。
その気持ちだけは今までもこれからも変わらないと思います。
2.親友の突然の死
高校1年生16歳、夏の日にバイク事故で親友が亡くなりました。
今でもその当時の頃ははっきりと鮮明に覚えています。
彼とは毎日のようにバイクで海に行ったり、家に泊まって夜が明けるまで話したり、喧嘩したりしていました。(じゃれあいみたいなものです(笑))
思い出話をしたらキリがないですが、ある日彼が突然『なぁ、バンド組んで文化祭出ぇへん?』と僕に聞いてきました。
僕は嬉しかったけど、その気なさそうに『まぁ、、別にかまへんけど』と答えました。
彼は『ほな俺ドラムやるからお前歌えや』と言ってきました。
僕は楽器ができんから『まぁ、、ええやろ』と引き受けました。
それから他でもメンバーを見つけてバンドが形になりそうだったので、課題曲を決めて各自で練習していました。その間にも遊んでいる時に軽く合わせたりもして。。
そろそろそれぞれ形になってきたし、一回スタジオに入って音合わせしようかと話をしていた矢先でした。今でもあの日の事は忘れられません。
担任の先生が朝のホームルームで教室に入ってきました。
騒がしかった教室が少し静かになり、みんな席に着いていきました。
ですがいつも元気な先生が教壇の前で俯いたままだったので、みんな少し不審に思っていました。すると先生がゆっくり顔を上げたと思ったら泣いていました。
でもみんなは最初先生がふざけていると思ったのか、『そんなんええって~、なんの冗談やねん』と言いましたが、先生はそれには何も答えず、天を仰いだまま涙を抑えようとしているのがわかりました。
それをみんなも感じ取ったのか、教室が一瞬で静まりました。
そして、先生がその日初めて口を開きました。
『F君が昨日の夜バイク事故で亡くなりました』
僕はこの日人生で初めて時間が止まるのを経験しました。
自分の脳と、教室内がその瞬間文字通り凍りました。
その後の事はぼんやりとしか覚えていません。みんな先生言われるままに学校の近くのお葬式場に誰も口を開くこともなく重い足取りで歩いていたと思います。
ただ一つはっきり覚えているのが、彼の亡骸を見たときに『お前そんなとこで何寝てんの?』と言った事(これが今思えば彼に向けた最期の言葉でした)と、彼の顔がびっくりするくらい冷たかった事です。
みんなが泣いてる声を聞きながらも僕は涙が一滴も出ませんでした。
それは人生で初めて友達を亡くすとゆう、あまりに非現実的な現実を体験したからです。
それからとゆうものご飯も喉が通らず、一日抜け殻のような日々を過ごしていました。
誰にも会わず、風呂も入らず部屋に引きこもって学校にも行けませんでした。
そんな日々でも動く時といえばトイレに行くときでした。
こんな時でも便は出るんかと無性に腹が立ちました。
お腹が鳴った時には自分のお腹を殴って止めようとしていました。
それでも涙は出ませんでした。彼が死んだ事を受け止められなかったし、涙を流したらそれを認めてしまうことになってしまうのが嫌だったんだと思います。
どれくらいそんな日々が続いたのかは覚えていませんが、このままでは駄目だとずっと心の中ではありました。親も心配していたと思うので、ある日突然学校に行くことにしたんです。
それは、今まで親に迷惑ばかりかけてきた僕が入学する時に、『高校卒業する事が親孝行やで』と言う言葉をふと思い出したからです。
それから学校に通って、なんとか卒業する事ができましたが、笑顔で過ごす事はできませんでした。心の底から笑うとゆう事を忘れてしまったのです。
家族と過ごしていても、友達と過ごしていても、何をしていても、ずっと心の中には彼がいました。それでも今目の前に無いものより今目の前にあるものを大事にしようとゆう気持ちはもっていたんです。
勝手な僕の気持ちですが、あいつの分まで俺が生きたろうと、笑って楽しい人生過ごしたろうと、頼まれてもいないけどいつしかそう思うようになりました。
この彼の死が良くも悪くも僕の人生で家族や友達を何よりも大事にするとゆう気持ちのきっかけになりました。これから先も彼を忘れる事はないし、いつまでも僕の心の中で生き続けていきます。
※人生に関する記事はこれから随時執筆していく予定です!!
3.夢も希望もお金も無かった日々、、“音楽”と出会う
高校を無事卒業し、親友の死を乗り越えたのも束の間新たな試練が、、
高校生活を幽霊のように過ごしていたのもあり、自分の将来の事など考えもせずに気づけば卒業をしていました。
何をしたいのかなんて考えていなかったし、高いお金を払って大学にいこうとも全く考えていませんでした。
その当時実家に住んでいたので生活に困ることはなかったのですが(親のすねをかじりまくっていただけですが 笑)親に頼りっぱなしとゆうのもアカンし、何もしないわけにもいかなかったので、とりあえず日銭を稼ぐためにバイトをし始めました。
友達の紹介で居酒屋で働き始めました。友達と一緒とゆうのもあって、人間関係も悪くなく、わりと楽しく働けていました。
そんな日々を過ごしていたある日、母親と大喧嘩しました。(今では何のことで喧嘩になったのかは覚えていません。。)
その日を境に家を出ていきました。感情的になっていたので、その時は本当に二度と家に戻らないと思っていたと思います(^^;
それでも何も考えず勢いで家を出たので、行く当てもないまま車の中でしばらくボーっとしていました。そんな時幼馴染の親友から連絡があり、事情を電話で話すと『ほな俺んちに住めや~』とゆってくれ、急遽その親友の家に転がりこむことに、、
聞いた住所に車でいってみると、綺麗なマンションが建っていました。インターホンを押すと親友が出迎えてくれました。
中に入るとワンルームだったのですが、びっくりしたのがおよそ10帖ほどの部屋にびっちり人が詰まっていたんです。。
それも煙草の煙で前が見えないほどに部屋が真っ白になっていました(^^;
その後分かっていくのですが、親友はバンドをしていて、そのバンド仲間のたまり場になっていたのです。。
最初は知らん人ばっかやし、なんや数え切れんくらいのピアス顔中についとるしで抵抗もあったのですが、他にいくところもなかったのでそのまま住ましてもらう事にしました。
誰がつけたのかは分からないですが、みんなその部屋の名前を『ワンダーランド』と呼んでいました。多分みんな子供のハートやったんかなーと。。(笑)
それからとゆうもの(想像つくとはおもいますが、、)毎日のようにお酒を浴びるほど飲んでは、ゲームや麻雀をして明け方までドンちゃん騒ぎでした(/・ω・)/
簡単にその生活に溶け込んでいったのです。。汗
気づいた時には働きもせず遊び明かしていたので、お金が底をつきかけていました。。
さすがにやばいと思い、日雇いのバイトを探して、働いてお金を稼いでは朝まで飲んで、、稼いでは朝まで飲んで、、の日々でした。。(今思えば若さゆえできてたのですが、とんでもない生活をしていたなーと思います(^^;)
そんなある日の事、、今まで全く興味もなかったのですが、親友が『ライブするから観に来るー?』と誘ってきたので『別に暇やしええでー』と人生初めてのライブに行くことになりました。
その親友のライブが今後の僕の人生を変えるきっかけになるとは思ってもいませんでした。
聞いてた時間にライブハウスに行ってみると駐車場にワンダーランドで見慣れた顔ぶれがいました。
毎日酒飲んで、ゲームして、麻雀してたけど、そういえばみんなバンドしてたんやなーとその時初めて実感しました(笑)
ライブハウスに入ると、ワンダーランドみたいに煙草の煙モクモクで、みんな手にはお酒を持っていたので、僕もカウンターでスミノフを買って椅子に座って煙草を吸っていました。
親友のバンドは一番手だったので、待っていたらSEが流れて(ライブ前の入場曲みたいなものです)始まりました。
最初の楽器の音が鳴ってからはもう釘付けになりました。
こんな世界があるんやと、、テレビで観るのとは全然違う生の音や臨場感、、そして何よりみんなが楽しそうに、自由に自分とゆう人間を音で表現して、そこに生まれるリスナーとの一体感。
全てが初めて経験する世界で圧倒されました。。率直に『かっこええなぁ。。』と、、
そのライブが終わってからとゆうもの全く音楽に興味が無かった僕が、親友におすすめのバンドのCDを全部借りて、車や部屋で片っ端から聴いていく日々が続きました。
そんなある日、車でいつものようにバンドのCDを流しながら口ずさんでいると、
隣に座っていた親友が『お前ええ声しとるしボーカルやる?』と聞いてきました。
その瞬間高校の時に亡くなった親友にも同じようにバンドを誘われたのを思い出しました。
(高校生の時はさほど音楽に興味はなく、ただ友達と一緒に何かをするとゆうのが楽しそうでバンドをする予定でした。。)
その時も同じように『まぁ、、ええやろ』と答えました(笑)
それからは毎日色んなバンドの曲を聞いては車で歌っていました。
楽器は弾けた方がええよなぁと思って、親友の持ってたエレキを借りて練習したり曲を作ってみたりしました。音楽にどっぷり浸かっていったんですね。
ですがそんな日々も束の間、家を出て1年半近く経ったある日、母親から電話が掛かってきました。
1年半も連絡とっていなかったし、喧嘩して出て行ったのもあって電話に出るのを迷いましたが、もしかしたら何かあったのではないかとゆう気持ちが勝ち、電話に出ました。
すると母親は『隣の家のおばあちゃんが亡くなったからお葬式に出てほしい』と言いました。
僕は喧嘩してた事なんて忘れて、『分かった、すぐに帰るわ』と言い、1年半ぶりに実家に帰りました。子供の頃からお世話になっていたおばあちゃんだったからです。
久しぶりに会った母親は、喧嘩の事は何もなかったかのように迎えてくれました。
それを機に僕は『ワンダーランド』を出て、しばらく実家で過ごす日々に戻っていきました。
結局その後すぐに大阪に上京する事になったので、親友とバンドを組むことはなくなったのですが、これをきっかけに僕の音楽人生が始まったのです。
※音楽に関する記事はこれから随時執筆していく予定です!!
4.“日本一の珈琲屋”の頑固じいさんと出会う
僕は20歳の頃大阪に上京して、音楽活動をしながらバイトをして生活をするとゆう日々を6
年程続けていました。
自分が音楽以外にやりたい事もなく、やりたい仕事もなかったからです。
それでも心のどこかではいつも、「自分の好きな事を仕事にできたら幸せやろーなー」とゆう漠然とした気持ちだけは持っていました。
それでも親も心配してるし、まぁ一回就職して働きながら自分が何をしたいのかを探していこうと思い、26歳にして就職活動を始めました。(かなり遅いですが(笑))
それでも幸いすぐに就職先は見つかりましたが、5日で辞めました、、( ゚Д゚)
かなりのブラック会社だったからです。。(今思えば誰もが通る道、、?(^^;)
母親は就職が決まった時、涙ながらに喜んでくれたのですが5日で辞めたとゆうと、
『あの時の涙返せー--!!』と涙ながらに訴えてきました(笑)
それからまたバイトをしながら音楽活動をしての日々に逆戻りです。
一応就職先を探してはいたのですが、一発目でブラック会社を引き当てたのもあって、
どこかで気持ちが萎えていたんでしょう、結局それから再就職するのに1年かかりました(笑)
やっと見つかった就職先は、5日で辞めなかったですが( ゚Д゚)結局1年程で辞めました。。
好きな事は長く続けられるのですが、楽しくない事は飽き性で長続きしないんです、、(^^;)
そこからすぐに再就職先も決まって働いていたのですが、その期間に転機が訪れたのです。
僕は昔からカフェ巡りが好きで、旅行をしたら必ずとゆっていいほどカフェにいきました。
特に自分の好きなように店作りをしている個性的なカフェの雰囲気が好きなんです。
ただカフェに行ってもブラックの珈琲だけは昔から苦くて飲めなかったんです。
いつもミルクが入って甘めなカフェオレを注文していました。
そんなある日、車でドライブをしていて細い路地に入ったらまるで駄菓子屋のような古びたお店がありました。
よく見ると珈琲の看板があったので、駐車場もなかったのですが気になって店の前に停めて
中に入りました。(なかなか入りにくいような雰囲気でしたが、、)
すると一人のじいちゃんが椅子に座って寝ていました(笑)
最初マジかーー!!と思い、やっぱり引き返そうとしたところに
じいちゃんが起きて『いらっしゃい』と眠そうな顔で僕に呼びかけました。
心の中で「もう逃げれんやんけーー」と思いましたが、『ほなカフェオレ1つ、、』と頼むと、
じいちゃんが『あんたここに来るの初めてか?』と聞いてきました。
『そやけど?』と答えると、『うちは初めての人にはブラックコーヒーを飲んでもらうんや』と
訳のわからんことをゆってきました。。ん、、?ボケてんのか?と、、(笑)
『俺ブラックコーヒー昔から苦くて飲めへんねん』とゆうとじいちゃんは、
『ほな今日から飲めるようになるわ』と言いました。
心の中「なんやこのじいさんはーー」と思いましたが、その後にじいちゃんは
『金はいらんからまぁ黙って飲んでみ』とゆったので、
『ほな黙って飲んだるわ』と答えると、じいちゃんはすぐに準備にかかりました。
そこから煙草を吸いながら待っていました。その間に店の中をキョロキョロと見ていましたが、
お世辞にも綺麗とは言えない店内でした。
ただ、大きな珈琲焙煎機があったので「自家焙煎してるんやなー」とぼんやり思いました。
すると、珈琲が出来たのかとてもいい香りが鼻に入ってきました。
と同時にじいちゃんが僕の前にそっと珈琲を置きました。。
『まず一口飲んでみ、そこから30秒置いてもう一口飲んでみ』と言いました。
ゆわれた通りにまず一口飲んでみました。。すると本当にびっくりしました。
ブラックコーヒーなのに甘いんです。。
びっくりした顔でじいちゃんの顔をみると、嬉しそうに頷きながら『いーち、にーい・・』と時間を計っています。。そこから30秒数えると『飲め!』と言われたのでもう一口、、
もう一度びっくりする事になりました。最初の一口より甘くなっていたんです。
そしてそのまま少しずつ味わいながら飲んでいると、じいちゃんが『最後の一口は残しとけ』
と言いました。
(なんでやろ、、)と思いながらもゆわれるまま残しておきました。
そこからは、じいちゃんの珈琲話が始まりました。。お客さんもいなかったので、気づけば3時間過ぎていました。
(この珈琲についての話をするとかなり長くなってしまいますので今回は割愛させていただきますが、かなり簡単に話すと、じいちゃんの持論は本当に美味しい新鮮煎りたての珈琲は砂糖やミルクを入れなくても甘いとゆう話でした。)
そして、夜も遅くなってしまったので帰ろうとしたら、じいちゃんは『最後の一口飲んでいけ』
と言ったので、僕は一気に流し込みました。
すると、本日3度目のびっくりでした、、冷たくなっている最後の一口が一番甘かったんです。
じいちゃんは『本間にうまい珈琲は冷めてもうまいんや』と言いました。
その言葉を最後にお店を出ました。。
車の中でも珈琲の余韻と、じいちゃんの話の余韻が頭の中をグルグル回っていました。
本当にこの日は衝撃的な一日になりました。
それからは(想像つくかもしれませんが(笑))じいちゃんの店に暇さえあれば通っていました。
じいちゃんからもっと珈琲の話聞きたい、あの珈琲をもっと飲みたいと、、(中毒者か!( ゚Д゚))
そうして少しずつ自分の心の中に珈琲への道がふつふつとでてきました。。
今まで音楽以外に何もなかった自分が初めてこれを仕事にしたいと思ったのです。
そこからは早かったです。じいちゃんの珈琲豆を買っては家で自分で挽いて、ドリップして、飲んで、、の繰り返しです。
それでも同じ豆を使っているのに、じいちゃんのあの味が全然出せませんでした。。
その後もじいちゃんには聞かずに自分なりに挽き目や、お湯を注ぐスピード、抽出時間等、色々試したのですがやはりじいちゃんと同じ味は出せません。。
本当はじいちゃんに聞かずにあの味を再現したかったのですが、いよいよじいちゃんに聞いてみました。。するとじいちゃんはあっさりと、『その淹れ方ではこの味は出せん』と言いました。
聞いて驚きました、じいちゃんの淹れ方は教科書に載ってるような淹れ方ではなく真逆の淹れ方だったんです。
実際にこの淹れ方は教科書にも駄目と書かれている淹れ方ですが、じいちゃんの淹れ方はもう少し特殊で、ネットで調べても検索表示されないくらい、本当にこの淹れ方をしている人はいないと思います。。
じいちゃんに許可も得ていないのでここでは紹介できないですが、どちらにせよ珈琲焙煎歴60年以上の職人(頑固じじい)がブレンドした豆と特殊な淹れ方の技術があっての珈琲なので、およそ真似するのも難しいと思います。
僕もじいちゃんが淹れ方を教えてくれたのですが、同じ味を出すのにかなりの時間がかかりました。。
いつしかじいちゃんの珈琲を飲んでいるうちに、自分の中で(この珈琲の味をもっと色んな人に飲んでもらいたい、、知ってもらいたい、、)と思うようになりました。
そこで僕が思いついたのは、車での旅が好きなので、色んな場所に車で移動して珈琲屋をできたらなーとネットで調べて出てきたのが移動販売でした。
それまでは知らなかったのですが、当時東京の方では認知がされていたと思います。
思いついたらすぐ行動の僕は、すぐにオークションで改装済の移動販売車を購入しました(笑)
もちろんじいちゃんの珈琲ありきの営業なので、じいちゃんにお願いして仕入れさせて頂きました(/・ω・)/
そうして僕の珈琲屋人生が始まったのです。
※珈琲に関する記事はこれから随時執筆していく予定です!!
5.妹一家がきっかけで“カメラマン”の道へ
大阪に10年以上住んでいたのですが、訳あって地元兵庫県に2021年2月に帰ってきました。
その影響で移動販売の珈琲屋も一旦休業とゆうことになりました( ゚Д゚)
とりあえず失業保険受給期間中はゆっくりこれからの事を考えようとひとまず休戦。。
何より妹に子供が出来て、里帰り出産で実家にいるとゆうことで、
いやー、おめでたいなぁ~と、、(/・ω・)/
実は僕は子供が少し苦手で、兄貴の子供ですら一度も抱いた事がなかったんです。
何でと言われたら分からないのですが、たぶん可愛さとか、接し方、扱い方が分からなかったからなのかなーと、、今ではそう思います。。
そんな事もあって、妹の甥っ子に対しても少し距離を置いて見ていました。
それでも妹や父親や母親が嬉しそうに甥っ子と接しているのを見るのは好きだったんです。
それを見てこっちもなんか嬉しかったんですよね。。
そんなある日、ふと、、本当にふと思い立ったんです。
僕は甥っ子の相手はできんけど、甥っ子の成長の写真を撮ったり、みんなが甥っ子と触れ合っているところの写真を撮るくらいはできると、、
その写真をええ感じのカメラでええ感じに撮ったら、
ええ感じの思い出として残っていくのではと、、( ゚Д゚)
そこからは早かったです。。すぐにカメラ屋に行って、
プロ級のいいカメラを探して、購入( `ー´)ノ(もうアホです(笑))
でも不思議と、生まれて初めて高いカメラを買ったからか、使い方も知らんのにめっちゃ色々撮りたくなるんですよね(笑)
妹一家はとにかく車でどっか行くのが好きやったので、僕も一緒に乗って色んな所に行っては甥っ子を中心に母親や妹一家の写真を撮りまくりました。。
もうその時点でカメラにどっぷりハマっていったんですね、、( 一一)
楽しくてしかたなかったです(-_-メ)
でもそんな楽しい日々も束の間、、里帰り出産していた妹が、住んでいた沖縄に帰る日がやってきたんです。。
家を出ていくギリギリまで僕は妹一家を撮っていました。
そして玄関に向かう直前で、妹が急にこちらを振り返って、『ほいっ』っと僕に何かを渡してきたんです。。それは、甥っ子でした。
僕はどう抱いたらいいかもわからず、とりあえず落としたらアカンと思い、強く握りしめていました。。
そんな妹は嬉しそうに、笑いながら動画や写真を撮っていましたが、今思えばずっと抱いてほしかったんかなぁ、、と思いました。。
(その後写真を送ってきてくれたのですが、マジでぎこちなく、ギターを持っているように抱いていました(笑))
妹一家を外まで見送って、手を振りながら、車で出ていく瞬間まで写真を撮り続けました。。
その後、部屋に戻って今まで撮り溜めた写真を一枚一枚見返していました。
今まで撮るだけ撮って、データをパソコンで見たことなかったのです。
写真は一瞬を切り取っているのに、不思議とその時撮った時の状況や声が鮮明に蘇ります。
見ながら「あぁ、、ええもんやなぁ、、」と思いました。
そして、今まで撮った写真を全部現像して、次に日の朝に妹にデータを送りました。
すると妹から昼頃に電話が掛かってきました。
『もしもし、、写真全部見たわ!めっちゃええ感じに綺麗に撮ってくれてありがとう!』と、
何度もお礼をゆって、ものすごく喜んでくれたんです。
それを聞いて僕はめっちゃ嬉しい気持ちになりました。
そして、電話を切った後に僕は「よし、俺カメラマンになろう」と決めました。
そこからは早かったです。。次の日に早速ハローワークに行きました。
そしてカメラマンに絞って探して、2件、、家から行ける範囲で見つけたので応募をしました。
次の日に僕の募したうちの1件の写真館から連絡があり早速面接が決まりました。
それでもカメラ歴なんて1か月程だったので、PRできる事なんてありませんでした。。
だから僕は自分の想いを素直にそのまま面接官に伝えました。
『妹の家族の写真をたくさん撮って、妹に渡したらすごく喜んでくれたんです。それが嬉しくてカメラマンになろうと思いました』と、、
すると、面接官が『実は僕も、30年以上前に親戚の子供の写真を撮って喜んでくれたのをきっかけにカメラマンになろうと決めたんです』と、、
僕はびっくりしたのと同時に縁を感じました、、「あ、、俺ここで働くんやな。。」と、、
そして面接が終わり、その日早速動物園に写真を撮りに行く道中、面接した写真館から採用の電話がかかってきたんです。
そうして僕のカメラマン人生が始まったのです。
STRAY CAMERAMAN公式ポートフォリオサイトはこちらから!!
※カメラに関する記事はこれから随時執筆していく予定です!!
6.車にギター、珈琲、カメラを積んで日本一周の旅へ、、
ここまでのプロフィール記事を読んだ方は、おそらくこう思っていると思います。。
「移り変わりの激しい人生やな!!」と、、(笑)
僕もそう思います(笑)
ですが僕には今、音楽、、珈琲、、カメラ、、と、今後の人生において、
切っても切り離せない3つの道があります。。
本当は一つの道に絞って進んだ方がいいのかもしれませんが、欲張りなんです(笑)
これから2足のわらじならぬ、3足のわらじで歩いていこうと思います( `ー´)ノ
何もなかった自分が、少ないけど、これと思ったものが3つもできたんです。
それが嬉しいから、やっぱりどれかを諦めるとゆう事はできないんですね。
今現在写真館でカメラマンとして働いていますが、すごく楽しいんです。。
本当に好きな仕事なのですが、新たな想いがでてきました。。
それは、車で日本一周するとゆうことです。
何でそんな気持ちを持ったのかとゆうと、カメラがきっかけです。
仕事やプライベートで色んな写真を撮っていると、「もっと色んな場所に行って、そこで出会った色んな人や、色んな風景とかを撮って、思い出を写真に残したい」と思ったんです。
そこから膨らんで、自分の音楽や、じいちゃんの珈琲を全国の色んな人に、届けたい、、伝えたい、、と思うようになりました。
つまりは自分の好きな事をぜーーんぶ車に積んで旅がしたいとなったわけです(笑)
そこからは早かったです。。会社の人にも、親にもこの気持ちをそのまま伝えて、写真館を退職する事になったんです。。
あまりかっちり決めると旅にならないので、この時期にこの場所に行くと良い写真が撮れそうやな、、みたいな感じで移動していこうと思います。
そして2022年7月に退社予定なのでそこからは、フリーランスのカメラマンとして独立します(/・ω・)/
現在副業も大丈夫な会社なので、休日の土日はご依頼があれば、飛んでいきます(笑)
※仕事のご相談やご依頼はこちらからどうぞ!
予定では2022年9月頃に旅に出るので、それまでの間でしたら関西圏(大阪、兵庫、奈良、京都)でしたら、仕事のご依頼お引き受けできますので、お気軽にご相談下さい(‘◇’)ゞ
SNSは写真撮ってる事もあり、Instagramが一番動いています(笑)
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※旅に関する記事はこれから随時執筆していく予定です!!